携帯という便利なものができたお陰で、携帯は人々に自由を与えることになった。自由とはすなわち非常識。自由とは相手の気持ちなど考えず自分の裁量で判断すること。自由は世界中の誰もが認め、それを処罰することはできない。誰もが自由を愛し自由を求めているからだ。
個人の音信不通は処罰されない。これが、仕事や公的機関だったら処罰の対象になるだろう。たとえば仕事の得意先を音信不通にして、電気・水道・ガス、電話などの公共料金の支払いを無視したら、仕事の契約は切られ、電気・水道・ガス、電話の使用は止められるだろう。だが、個人の場合は経済的な損失はほとんどない。あるとすれば人間関係の破綻くらいしかない。人間関係を良好なものにするか、良好でないものにするか、それは個人の自由となっている。その過ちを犯したら、相手を嫌な気分にさせて嫌われるだけで、処罰の対象にはならない。悪化すれば人間関係の縁が切れるだけである。
ケイタイができたお陰で世の中便利になった。だが、音信不通という悪魔の副産物も同時に作った。便利な文明の利器を使用する側は、その非常識である副産物と戦わなければいけない。非常識な音信不通にどう対応するのか、これからはそれを問われる時代となった。
音信不通に対する私の対応はとてもシンプルである。
私は、「音信不通にした時点で切る」
しばらく経って音信不通にした相手から連絡があれば、
「過去を許し、温かく迎え入れる」
これが私の考えと対応のしかた。
つまり、「去るものは追わない、来るものは拒まない」という主義。
私は、いつでも人間関係は破綻していい覚悟ができている。そして、いつでも復活できる用意もできている。たとえ愛する人でも、音信不通にしたらその時点で切る。愛は永遠だが、愛は限定でなく、愛は無限に広がるものである。好意があった人が途中から私のことを嫌いになって音信不通にしたとしても、私は騒がないし、怨みもしない。逆に相手の自由を尊重する。そして、相手の開放を祝福する。愛は捧げるもので縛りつけるものではない。捧げることを忘れて縛りつけたらその時点で愛は終わりとなる。愛は過去が終わり未来に続くもので、終わったら自由に好きなように生きなさいと応援するだけである。
愛が終わって寂しくないの?といわれるとそれは寂しいし…切ない…。だが、切なさは一瞬で終わり、すぐに前(未来)に進むことができる。永遠の愛は未来に向かうもの、過去に留まったら本物の愛が見えなくなる。本物の愛に巡り合うまで未来に進む。そして本物を見つけたらそこに留まる。
私は、「さようならだけが人生」これを嫌というほど経験したので、去るものは追わない、来るものは拒まないというルールができた。これが生きる知恵だと今は確信している。去ったものが100、戻ったものが1でも構わない。その代わり新規を100以上用意できる。私は過去に拘らない。どちらかというと未来に拘る。この私の考えを薄情だと思うかもしれない。だが、過去に拘っている人の方が私は薄情だと思っている。それは、過去の人に拘っていつまで経っても前に進めないからだ。いつまでも過去に拘っている人の方が薄情。自分の人生に薄情で未来の人に薄情で過去と比較して未来を愚弄しているからだ。それでは、いつまで経っても幸せになれないよ。
音信不通に対する私の考えを聞いて、そこからどうやって復縁できるか?
さらに確信に迫っていく。
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何の原因も思い当たらないのに、いきなり連絡を絶たれた、
熱烈なアプローチで交際が始まったのに、すぐに誘いがなくなった、
そんな話はわたしの身の回りにたくさんありました。みなそれぞれ思いつめたり
苦しみ、一度は問い詰めたり(自爆に近いでしょうか)、不安から手紙で呼びしたけれど、無視されたり(こんなに綺麗で性格もいい女性でも恋に苦しみ、またこんな人をないがしろにする男がいるのかと思うような人でした)、すんなりあきらめたりで、いつまでも悩んだり、苦しんだりする人はいなかったですね。連絡がないのは恋の終わり。すっきりした時代でした。
そして嫌がっている女性にいつまでも付きまとう、ストーカー男の話も
聞いたことがありませんでした。