悲観主義者は失敗を永遠に続くものと考える。
悲観主義者が失恋すれば、自分の人生は終りだ、自分は一生幸せになれないと考える。
楽観主義者が失恋すれば、自分の人生はこれからだ、次にいい人が見つかると考える。
悲観主義者が仕事で失敗すれば、挫折感に苛まされ無気力になる。
楽観主義者が仕事で失敗すれば、失敗をテコにさらなる上を目指す。
楽観主義者と悲観主義者。世の中には二人の人間がいるとすると、
あなたはどちらを目指しますか?
私はどうか?というと、
私は、楽観主義者も悲観主義者も目指さない、私は現実主義者を目指す。
現実から逃げない、現実に責任をとる人間を目指す。
若い頃は悲観主義者だった。
失恋したときは、生きる希望を失った。
悲しみのあまり、思いでの場所をあてもなく彷徨い、失恋ソングで傷ついた心を癒やす日々が続いた。当時は失恋ソングがやけに流行っていた(苦笑)。思いでの街をあてもなくふらついたときに街頭から流れる音楽はいつも悲しみを増長させる失恋ソングばかり。切なさのバラードをバックミュージックに、横浜の伊勢崎町や山下公園、東京の渋谷や新宿をうろついた。幸せそうなアベック(現在はカップルという)を見れば嫌な気分(おそらく嫉妬)になって、ここにいる全ての人が幸福そうに見えた。その中で自分だけが不幸に見えた。周りが羨ましい・・・自分はなんでこう惨めなんだ・・・くそ。やるせない気持ちが自分をどんどん無気力にしてしまった。あのときはこの惨めな気持ちが永遠に続くと思った。
だが、それは短かった。人間には再生能力がある。自助能力というのか、自己改善能力というのか、よく分からないが、人間はどん底から這い上がる再生能力がある。時間が解決してくれるという天の摂理に従えばどんな苦しみもやがて過去のものとなる。三月で傷は癒え、1年後にはすっかり元に戻った。元に戻ったけど、心のどこかに失恋の傷を抱えたまま。それがまた次の失恋を生む。証拠にもなく繰り返し失恋する。何回失恋したのだろう?自分でも覚えていない。一度植え付けられた心の傷は消えないのか、それがトラウマとなって自信をまたなくしてしまうのか。度重なる失恋によって、内面に生まれる心的状態がおかしくなり、感情・ 感動・情熱などが無気力となり、ペーソスとなってしまった。しばらくペーソスの期間が長かったと思う。だが、人間はそのペーソスからも立ち直る。人間の再生能力は凄い。全部時間が解決してくれる。天の摂理に従って時間を味方につければ、どんな問題も解決できる。そのときは解決できなくても、時間が来れば解決している。悲しみは一生続かない。それを覚えた。
時間が解決してくれることは覚えたけど、時間がかかり過ぎた。思えばずいぶん無駄な時間を過ごしてしまった。なぜ?ここまで時間がかかったのか、それは現実から逃げていたからだ。悲観主義者は現実から逃げる。逃げれば時間が解決してくれると分かっているからだ。だが、根本では何も解決していない。逃げては何も解決しない。また次に同じ過ちを繰り返すことになる。では楽観主義者の方がいいか、悲観主義者より楽観主義者の方がいいだろう。だが、楽観主義者にも欠点がある。それは現実離れした妄想を抱くからだ。現実を無視した妄想では何も解決しない。それも逃げているに過ぎない。問題を解決するには事実に即した現実に逃げずに向き合うこと。これしかない。現実から逃げるな、全部自分の責任だ、と自分に言い聞かせるしかない。今の苦境は全部自分の責任だ。自分が選んだ仕事も、自分が好きになった相手も、うまくいっていないのは全部自分の責任だ。現実主義者になるには、それらの責任を認めること。そこから事実に即した解決策が見えてくる。事実に即した解決策は、逃げることではない、戦うことである。相手の批判・非難に対して勇気を持って戦うこと。自分の怠惰・怠慢に対して勇気を持って戦うこと。自分を信じて。これが現実主義者の生き方。私はそれを目指す。
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過去の何処かで楽な選択をしたか、現実を無視した選択をしたか何かしら原因があるはず。
それを紐解かずに結果だけ悲観しても、楽観視して逃げても何も変わらないですよね。
私は25歳の時にした選択が少しずつ人生を狂わせ、修正するのに約10年かかっています。今尚軌道修正中です。でも10年前と比べて人を許すことを覚え、心も豊かになりました。
自分の人生に責任をとる。
自分と向き合うことは大変苦しい作業ですが、その代わり実りも多いです。
今不幸だと思う自分の人生を、誰かのせいにする選択は楽です。何の努力もしなくて済むし、誰かに依存できるから。それと同時に孤独で不幸な人生を歩み続けるという現実もきちんと受け入れられれば、その選択もありだと思います。