ホーム > 恋愛・結婚・復縁  > 批判は学ぶものであり、怒りをあらわに出して落胆するものではない。
批判の受け方として。
批判から何かを学べるかもしれない。自分が間違ったことをしているのなら、それに気づくことは自分にとって一番の利益になる。このように批判は余裕を持って受け入れるべきである。

私自身もそのようにしている。他人からの批判は、何かを学ぶ機会。自分が間違っていたことを正す機会。人生が間違った方向にいかないように、過ちを悔いとどめてくれる機会。その瞬間は落胆して怒りをあらわにすることもあるが、あとから冷静に考えてみると、批判した人の言い分も正しいなと思うときもある。

また、これはどう考えても相手の言い分は正しくないと思うときもある。正しいか正しくないかは最終的に自分で考えて処理するようにしている。

正しいか正しくないかの決定権は自分にある。長くこれまで生きてきて、数々の経験を積んできて、人格的にも常識的にも、それなりの鍛錬を積んで来たので、最終結論は自分が出すようにしている。だから、他人の批判は学ぶものは学び、そうでないものは排除するようにしている。我が常識は毒を排除するようにできている。また毒によって侵されることはない。

毒に侵されれば、この仕事はできないだろう。誹謗中傷で炎上するサイトもあるようだが、可哀想にそれで精神的におかしくなった著名人もいる。とくに若い子は危険だ。若い子は批判されると繊細に反応してしまいネガティブがピークとなり、恐怖に脅えてしまう。とくに自分のことがあまり好きでない人は、他人から批判されると、自分の人格が否定されたと感じ、人間としての価値まで否定されたようになってしまう。

ここで覚えて欲しいのは、他人の批判は、あなたの人格否定ではないということだ。たとえそれが人格否定であっても、相手に協力して自分を批判する必要はないということだ。

批判する人間が人格者かというと?そうではない場合が多い。
批判が的確で学びの機会があれば相手は人格者となる。だが、相手が不幸になってほしい、失敗してほしい、負けほしい、相手が嫌いだからやっつけたいと、ののしる批判は人格者ではない。学びなのか?悪感情なのか?判断は人格者であるあなたがすればいい。

ほとんどの批判は広い心で受け入れればいい。その方が利益になる。批判から学ぶ姿勢も大切である。また批判から毒が広がることもある。毒のある批判は、広い心ですみやかに排除すればいい。批判を広い心で受け入れるとは、批判を取捨選択することにある。人生は常に取捨選択だ。毒も選択すれば、ぴりっと辛子のきいた人生の調味料になるかもしれない。そうなれば、毒を毒でもって制することができる。

いずれにしても。
人生は経験だ。
どれだけ頑張ったか。
どれだけ努力したか。
どれだけ忍耐強く耐えたか。
どれだけ仕事をやったか。
どれだけ学問を積んだか。
どれだけ根気よくやったか。
どれだけ経験を積んだか。
という経験だ。

経験を積めば、何が正しいか?なにが間違っているか?一瞬にして取捨選択ができるようになる。批判の選択権は自分にあり、自分が最高裁の判事だ。

批判は学ぶものであり、怒りをあらわに出して落胆するものではない。
批判から学ぶものもあり、批判から強くなるものもある。毒のある批判は自分を強くするためにある。いまの私はこれが直観でできている。直観でこれはためになる批判、これはためにならない批判とすぐに分類し、ためにならない批判はすぐに排除している。こうすることで、毒を制することができ、前に進めるようになった。


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