学問や習い事をするのに年齢制限はない、何歳になって始めても遅すぎることはないという意味が込められていて、「六十」は「七十」でも「八十」でもよいということです。
六十から何かの資格を取る。大学に行って何かの専門的な勉強をする。あるいはそばの打ち方を勉強する。または自給自足の野菜の作り方を勉強する。などなど、六十の手習いはいっぱいあると思います。
定年退職後のセカンドライフをどう過ごすか?「六十の手習い」か、いいかもしれないと思って、私もなにかやろうとしました。
しかし、何を勉強していいか?見当がつかない。
今さら何を勉強する?
大学にいって何かの勉強するか?心理学や精神学でも学ぶか?それもなあ・・・大学の先生から何か学ぶものあるの?とつい抵抗を感じてしまう。どっちかというと私が教えたいくらい。
では、そっち系の勉強はやめて、そば打ちでも始めるか、あるいは野菜つくりでも始めるか、それもなんか自分には合っていない気がする。
では、自分は何を勉強すればいい。学問や習い事をするのに年齢制限はないと言われているが、何もない場合はどうすればいい。
そこで、よく考えてみた。
何もなければ、別に勉強する必要はない。
習い事はインプットだし。
インプットが必要ないなら、アウトプットすればいい。
なるほど、アウトプットか。
これなら自分にもできそうだ。
アウトプットとは、自分の経験を外に配信すること。
どこかで勉強しなくても、現場で十分に勉強してきた。あとは、その経験を生かして人々を助けること。
あ、なるほどね。
だから、毎日ブログを配信しているんだね。ちゃんとアウトプットしているじゃないか。「これからはインプットよりアウトプットの方が大切だ」。やっと、それに自分自身が気づいたということです。
ある本に書いてありました。
六十の手習いはやめた方がいい。今さらインプットする必要はない。たくさんの経験があるのだから、それをアウトプットしろと。本屋の立ち読みなのでタイトル名と作者名は忘れましたが、この部分だけが印象に残りました。
この本は買わなかったので、そこから先は私の推測となります。
若い人はインプットして習ったことを後世に残すことができる。若いから時間があるので、習ったことを生かして、多くの人を助けることができる。
でも高齢者はインプットしても後世に残すことができない。時間がないので自分だけの学問で終わってしまう。せっかく勉強しても自己満足で終わってしまうので、多くの人を助けることができない。
高齢者の自己満足を否定するつもりは毛頭ありません。ただ、私はインプットよりアウトプットの方が大切だと思っただけです。高齢者は人生経験が抱負にあるわけですから、インプットよりアウトプットして若い人を助けたらどうでしょうか。
ですから、「六十の手習い」というより「六十のアウトプット」でいいのではないでしょうか。学ぶことはもちろん大切です。では、学びながらアウトプットしたらどうでしょうか。
私はアウトプットします。
いつまでできるかわかりませんが、体力の続く限りアウトプットします。
それが今は生き甲斐となっているからです。
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